イワツツジが咲いています
2021年6月26日竹灯籠のライトアップ始まりました!
2021年6月27日今から60年前の昭和36年6月27日、台風の接近と梅雨前線の停滞によって集中豪雨が発生し甚大な災害が発生しました。
昭和36年に起きたことからから三六(さんろく)災害と呼ばれています。
天龍峡のある川路地区でも甚大な災害に見舞われました。
天竜川の流域に位置する川路は名前のとおり「川の路」、水害との長い闘いの歴史があります。
その水害の記憶を風化させないために、忘れた頃やって来る災害に備える気持ちを忘れないようにと、川路地区では
6/26(土)に「天竜川との闘いの跡を見る 天龍川ウォーキング」を行いました。
予想していた倍の75名の参加者
かわらんべ屋上で天竜川流域を見ながら「死人岩」や「音瀬岩」また、復興の様子などなど説明を受けたの後、ウォーキングに出発🐾🐾
約7キロを歩くのでマイクロバスも用意されましたが乗車される方はほとんどない健脚自慢揃い。
三六災害最高水位の碑
石柱の上にあるラインまで天竜川の水が来ていました。
左端にみえるのが天竜川、その水位を見るとどれほどの大水害が起きたのかがよく分かります。
同じく、最高水位の碑はかわらんべ前の河原にも設置されています。
姑射橋そばの最高水位の碑の前で説明を受ける参加者
姑射橋を渡って龍江地区に入り「天伯岩」へ。
天伯岩は水害の度に水路を変える天竜川による村同士の土地の境界線を決めた印があります。
説明板の左の四角柱がその境界を記したもの
この天伯岩は地下5.5mに埋没されていたものを、この頭部だけ切り出して設置。
非常に大きな岩がまだ地下には残されています。
この字は川路の領主美濃高須藩主松平義行公の書が1700年に彫り込まれたものです。
高須藩主松平義行公は尾張徳川家から別家した家です。
天龍橋をわたり、時又港でお話をきいたあと鉄橋下脇にある貝暮ヶ淵跡へ。
「貝暮ヶ淵(かいくれがふち)」名前の由来はわからないとのことでした。
ここは「洗い越」
両側が背丈ほどの草の生い茂る堤防道路を歩いて行くと川に。
ここは橋が無く、このコンクリートの飛び石のようなところを渡って対岸へ。
このコンクリートのブロックの脇は平らな平地になっていて車も通れるとのこと。
ちょっとワイルド感があって大人もワクワク。
ブロックとブロックの間が空いていて魚道にもなっているようです。
自然に優しいですね。
天竜川と生活圏の間には二つの堤防があります。
この写真の堤防は以前のもので10年に1度あるような水害で冠水されてしまうらしいです。
写真の右奥には三六災害レベルの水害には浸水されないスーパー堤防ができていて、その内側が生活圏となります。
その間はかなり広大な河原が広がっていて、これも水害を起こさないためのものなんですね。
天竜川の砂を採るのも大事な治水、川底が浅くなると水害も起こりやすくなります。
13:30から始まったウォーキングは17時前には終了
事前準備の役員の方々
下見、草刈り、資料作りとありがとうございました。
案内所にもお声をかけていただき、参加させていただけましたことに感謝いたします。
どんなに素晴らしい治水をしても安心はできないというお話に、三六災害を含めた幾多の災害の恐ろしさを知っている方々の未だに忘れられない記憶を思いました。
60年前を忘れず、出来ることはやって災害に備えていくことが大事だと学びました。
長くなりましたが、まだまだ書き足りないんです。
三六災害時のこと、紙漉き、日本三大桑園桑畑、治水工事のetc
関係者の皆さま、このブログに誤りがありましたら観光案内所までご一報くださいませ。
(c hara)